弊社スタッフが交替でお届けする、ときに鋭く世相を斬り、ときに緩やかにあなたを癒す珠玉(?)の時事エッセイ。お仕事中の息抜きなどにお読みいただけたら幸いです。

2009/05/01 第16回  日本の裁判員制度


2009年5月21日「裁判員制度」は施行される。

司法制度改革の旗印の下で、何処の誰が、何の目的をもって、この制度を推進し、施行までに至ったのか。このプロセスを国民が納得いく言葉で説明責任を果せる人は、全く存在しない。立法府の責任は重い。
何故なら、この制度をどれだけの国民が望んだのでしょうか。大きな反対運動もおきています。
国民が求めてはならぬ制度を立法化し、施行しようとしている。しかも国民の義務として。

この「裁判員制度」に対して、2008年5月当時の最高裁長官島田仁郎氏は、「裁判員として刑事裁判に参加することは国民の義務であり権利だ」と発言したそうですが、現在の日本社会において、個人の権利の主張は当り前のようになっているが、義務において自らに確と課すことは希薄になっている。
国は国民の安全と生活を守る責務を果たしているのだろうか。
国民で所得税を払っているのは51%しかいないという。
このような日本社会において前述した「裁判員として・・・国民の義務であり権利だ」はどんな論理を以ってしても受け入れ難い。
権利、義務というなら日本国憲法に明記すべきであり、その為の議論を国民の眼に届く所で為すべきであった。又、安倍政権時に成立した憲法改正に伴う国民投票法にかけて、国民に賛否を問うべき重大な制度であった。

司法制度に関与する裁判官、弁護士、検察官は司法試験という難関を突破し、厳しい研修を受け、はじめて機能し、経験を積んで司法の独立を堅守するのである。三権分立のうち極めて高いレベルの専門性が要求され、研鑽を積んで国民の信頼を得てきたのではありませんか。
そこに何の素養も経験もない司法の素人が裁判の結論を出すまでのプロセスに参加、刑事裁判で裁判員として量刑を下すことになるのである。
過日、1998年に和歌山市で起きた毒物カレー事件での判決に、もしあなたが裁判員として参加したなら確信を以って、量刑として死刑を下せますか?

この制度には司法関係者の怠慢、立法府の片寄りを感じ、死刑廃止論者の思惑や、司法を翻弄する自称市民派のイデオロギーがちらつきます。
それを「義務、権利」と言われながら結果責任は問われない。普通の国民ならこれを畏れなければならないことである。
この制度を提案、推進、立法化した関係者に、国民を縊る慄れを感じます。

「裁判員制度」誕生の背景:15年前経済同友会は「法曹人口の大幅増員」、「個人にとって身近な司法」の確立と「司法改革推進審議会」設置を提言。翌年これらを受けたかたちで当時の村山富市政権は行政改革委員会の中に「規制緩和小委員会」を設置、そこにY. M氏が参画したのである。
新司法試験による司法試験合格者3,000人/年増員、そのために法科大学院は生まれる。これらの背景に米国からの年次改革要望書内容が絡みながら推進されてきた。日本社会に米国同様の訴訟社会を根付かせ、一大ビジネス化を目論んだのである。
米国の弁護士は100万人超、法律事務所も多く、そこには雇用が生まれ、裁判のビジネス化海外進出は必然的に生まれる。
(訴訟社会は企業の責任を追及する故に、特に製造業の衰退にも大きく影響を与えてきた)
Y. M氏は某グループのトップとして君臨する傍ら、小泉純一郎政権が退陣する迄「規制改革・民間開放推進会議」議長を辞任する2006年までの長い間、規制緩和の旗手として政府の政策プロセスに直接関与してきた。郵政民営化等、数多き事案(改革といえば耳に心地良い)の実現を推し進めてきた。
米国が要求しY. M氏が捏ねまわし、小泉政権が実現化した。
この日本の裁判員制度は訴訟ビジネス化、他の実現の背景を国民の眼から蔽い隠すための目玉商品的制度であり愚考制度である。
国の政策決定プロセスに現代の無貞節なビジネスマンを起用すること、大いに異議あり!
(参考:「司法制度改革という国家百年の禍根」正論5月号)

作家上坂冬子氏が急逝した。(享年78歳)ガンを患っていながら文筆活動を続け、自らの戸籍を北方領土の国後島に移し、返還運動では行動する方でした。今後辛口の論考に接する機会を失ったことは現代社会にとって大きな損失です。
ご冥福を祈ります。