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2010/04/01 第28回  日本の歴史外交 危うし!


岡田克也外務大臣の発言:日本人としての精神的支柱を持ち合わせているのだろうか?
これは、民主党議員全般に言えることでもあり、自民党にも同類の議員が大勢存在する。即ち、日本国は社会主義的国家に変貌した。岡田外務大臣の発言に戻ろう。
第21回日本政権交代 危うし!で彼の発言を批判した。外務大臣就任後の普天間米軍基地移設問題では、外務大臣としての職責を果していない。恰も政権の迷走に密かに加担しているが如く映る。
訪韓で日韓合併100年にあたるコメントを発した。
「国を奪われ民族の誇りを傷つけられた出来事だった」この発言は「日本に向けてのメッセージを発したつもりであり、相手の立場に立って考えれば理解できることだ」と小沢一郎幹事長の訪韓時の発言と共に、貴殿は何処の国の人ですか?と問いたいし、極めて危うい!
日本の政治権力を握る人が国にとって将来を危うくする重要な問題を国内では黙して語らず、国外で軽率な発言をするのだろうか。大問題である。過去、日韓併合を日本人の立場で明確に発した国務大臣はことごとく同胞によって潰され辞任に追い込まれている。最近では前航空幕僚長の発言に自民党政権は直ぐ反応し更迭して幕引きし、これを問題にした議論すらしない国である。ここに日本人の歴史認識に歪んだ心をみる。
韓国は捏造した歴史認識を国の容とし、日本は自虐史観の上に国の容を形成する極めて特異な両国である。日韓歴史対立は歴史教育問題に広がりお互い国家・民族の自尊心にまでかかわる"歴史戦争"である。前回で南京事件を扱ったが為政者自身の認識に自虐意識が組み込まれていて、それを裏付ける学者の登用で既にこの歴史戦争は敗北からスタートしているのである。

ここで長くなるが日本人の立場から「日韓併合」をみる。
まず現代の韓国は「メディアに登場する歴史ドラマを真実だと思い込む。(日本とて同じようなもの)そして外勢の侵略や干渉がなかったら静かで平和な国であったろうと錯覚。特に日本の朝鮮併合によって朝鮮人がどれ程苦しめられたかと歴史捏造し、それを大韓民国のアイデンティティとする国である」

1910年(明治43年)日本国が大韓帝国(1897年改称)を併合した年である。世界主要国は異議を唱えなかった。英国では「侵略(colonize)したのではなく併合(annex)した」と表現していた。意味は大きいのである。明治43年までの日本は、徳川時代の封建制度によってそれなりに社会秩序が保たれ更に、資本主義的経済発展を社会に内包し蓄積された下地があったればこそ、維新から近代国家への建設が短い期間で可能だったのである。仮に朝鮮に日本の徳川時代が存在していたなら、併合は無かったと考える。
2010年を日本、韓国とも「併合100年」として何故問題にするのか?
韓国は1910年から1945年と歴史捏造されてきた65年を含め、日本を貶めておくことの意思の表れであろう。対する日本人は正直、何も考えていないのが現実である。日韓併合を認識するなら、朝鮮が世界に門戸を開くと宣言した1876年から1945年までの70年を取り挙げ論ずるべきだと考える。
この時代の朝鮮社会はどうだったか?
社会は奴隷社会で30%が奴婢、首都漢城(現、ソウル特別区)の70%以上が奴婢や賤民。奴婢は物と同じ様に売買され生涯奉仕、平民中人階級は若干自由だが貴族官史たちに略奪される身は同じ。両班は無為徒食で下位階級には権力を振う。官職は公然と売買され官吏はほとんど仕事をしなかった。地方の官吏(府尹)は数ヶ月で交代、1年の予算の半分が府尹の年棒で消えた。
政治、司法、産業、教育、衛生などあらゆる面で劣悪であり、極めて貧しい国であった。
国軍は数千人の兵力で権力構造が変る程疲弊していた。成人男子に兵役義務があり服務につかぬ限り毎年軍布(麻布)を納めなければならなかった。官吏は生まれたばかりの赤子からも徴収。軍布のかわりに牝牛も奪われた。
朝鮮国王は幼い高宗で、摂政として国政のすべてに独裁だった大院君(国王の実父)は鎖国排外主義を以って日本に敵対「洋斥碑」を各地に建て、攘夷と侮日の意欲を持っていた。高宗妃は閔妃といい、曽祖父京畿道驪興で領議政両班に育てられる。13歳で興宣大院君夫人の閔氏により王妃に選ばれる。高宗と結婚。高宗は驪興閔氏となった。勢道政治の兆しが出てくる。(現在の韓国では道によってアイデンティティが異なる)
事あるごとに国政に口を挟み、王が外国使官を引見する際には屏風の陰から小声で王に入れ知恵をしたという。清の西大后は「垂簾聴政」を行ったが閔妃も積極的に政治に関与した。(現在の民主党政権も一種の「垂簾聴政」)閔妃が王妃になって以来、一族驪興閔氏は国庫が底をつくほど湯水の如く浪費し、李氏朝鮮を疲弊させた。"閔妃のような女"という言葉は女性に対する最大の侮辱であった。反動集団の中心人物で権力を利用して財を築き国庫を使い果たし、自分の贅を凝らすための手段を選ばなかった。
日本を取り巻く隣邦の清は老いて病み、西洋の植民地主義に抵抗する力を失っており、朝鮮もまたその宗主国の清国あることのみを知って世界の大勢を知らず、迫りくる列強の脅威も無論悟ることなく、時を浪費していたのである。幕末の日本の思想家の中には西力東漸の脅威に自覚し警鐘を鳴らしていた。そんな人物は東亜諸国には日本人しか居なかったのである。(吉田松陰他)

そして当時の朝鮮の国内政治、清国、露国そして日本や一部西洋列強との係りを含めて考えることなしにこの「日韓併合」は視えてこない。

日韓併合への道
開国を宣言した日本は1868年(明治元年)朝鮮と修好したいと明治政府は意思を伝える。
朝鮮は高麗の将軍李成桂が明から朝鮮という国号を授かり、建国以来支那と同じ年号を使い500年近く支那に服属して国であった。それ故に、日本の意思の中に"皇""勅""朝延"という文字が入っていて、それらを使う日本はけしからん。以降も日本の意思を無視しつづける。(日本の使節が洋装していることも拒否する理由としていた)征韓論原案は出兵と特使派遣が含まれ、西郷隆盛は出兵を否定、特使派遣を主張する。(西郷隆盛のこれからは征韓論にあった)
1871年(明治4年)には日清修好条規が締結され対等条約があったのである。
「江華島事件」を経て、1876.2.26(明治9年)日鮮修好条約の調印なる。
その第一条には「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と対等の権を保有する」と日本は朝鮮の地位を明清時代からの属国から自主の邦に引きあげた最初の国である。(戦後の韓国の教科書からは削除)

日鮮修好以降、大院君の排外主義勢力は衰え、閔氏一族が力を伸ばし日本の近代化に倣おうと務めた。しかし軍政改革で罷免された兵士たちが俸給(米)の遅配をきっかけに暴動が起き、これを大院君は更に煽動し、乱兵・乱民は多数の日本人を殺害、王宮にも乱入し閔妃一派の重臣を殺害した。閔妃は殺害を免れた。清国は5000の兵を朝鮮に送って乱を鎮め、大院君を清国に拉致、抑留した。(壬午の変)1882年(明治15年)日本・朝鮮間で済物浦条約が結ばれ、事件は落着する。賠償金50万円5年の約定を10ヶ年にし10万円支払完了した後、朝鮮の内政改革の資に供するために、残40万円を免除、更に汽艇1隻と山砲2門贈与する。壬午の変は清が朝鮮に進出する好機となり、清は兵3000を朝鮮に留め、その指揮の(在鮮の袁世凱)下に閔氏の政府を再建、閔氏は日本式改革を捨てて、清に依存する事大主義の政策を採った。そして日本の朝鮮進出を阻止するため清は朝鮮に欧米諸国と通商関係を結ばせる。(米英独伊露仏と締結)これらの流れは朝鮮の近代化を著しく遅らせる結果を招く。(夷をもって夷を制する)

事大党に対する開化党は日本を範として朝鮮の近代化と独立を掲げていた。朴泳孝、金玉均は福沢諭吉の支援を受け、留学生を日本に派遣(40名)その人達は後日、朝鮮の軍隊及産業の近代化の担い手たるべき教育を受ける。

1884年(明治17年)開化党の朴、金は日本の支持を得てクーデターを起こし、事大党に変って新政権を樹立する(甲申事変)が清の袁世凱の勧告で事大党は清国に派兵要請しクーデターは失敗に終る。結果、多くの日本居留民は惨殺され、朴と金ら独立党の幹部は日本に亡命する。福沢諭吉の「脱亜論」もこの頃である。甲申事変は日清の衝突であったのである。
日本の伊藤博文と清の李鴻幸の間で天津条約で決着する。しかし清側は条約を反故同然にに振舞ったのである。そこに露国が朝鮮進出してきたのである。事大党は清が朝鮮の内治外交への干渉を強めてきたことで、清に対する忘避と親露的傾向を生んでしまった。清は抑留していた大院君を帰国させ、宗主国としての地位維持にあらゆる手を打った。露国の脅威は英国も感じ、巨文島占領事件を起こす。露側は朝鮮の一部占領を主張するが、清が中に入って解決した。この様に第三国の進出と抗争に、当事国朝鮮自身が有効に対処する能力を欠いていたところに朝鮮問題の複雑さと悲劇性があったのである。
征韓論に敗れた西郷隆盛は庄内藩元家老、菅実秀に「いづれロシアは満州朝鮮半島を経て日本に迫って来る。これこそ第二の元寇であり、日本にとっては生死の問題になる」と語ったことが、この時早くも現れた。

日本に亡命した独立党幹部を日本政府は大切に扱う。金玉均は頭山満などの反対を無視して、清のうまい言葉に乗せられ上海に出国、同行した洸鐘宇に殺される。屍体は朝鮮に送られ、政府は六支の極刑に処し、首と胴は全道にさらし体躯は漢江に投棄した。金の父は死刑、弟は獄死、母は自殺したという。金の遺髪を梟首台から知己の甲斐軍治が収めて帰国、本郷真浄寺に墓石二米を超える立派な墓を建てた。傍らに甲斐軍治の小さな墓がある。日本がこれほどまで金を支援したのか、その歴史認識で日本は「同志」とみ、韓国では日本に「利用」されたという。このズレこそ両国の歴史認識の違いである。
金玉均の暗殺を喜ぶ清の態度に日本人は大いに怒り、日清戦争への流れを辿る因になった。1894年5月(明治27年)東学党は農民の暴動みたいな些細な出来事を利用、更に実権を握っていた閔氏一族の打倒を窺う大院君と通じ、他方清国の袁世凱とも通じていた。そして清国は朝鮮に出兵する。(6月12日)出兵と同時に天津条約に従って日本に出兵通告をしてきたが、通告文の中に「属邦保護」の文字があり、それを日本は無視できなかったのである。外務大臣陸奥宗光は「朝鮮が清国の属邦であることは認められない」と日本も兵を出動させる。日清戦争へ突入する。日清戦争は朝鮮が属国であるか?独立国であるか?を争った戦であったのだ。
この時代の日本は国際的になろうと努力、赤十字をつくりジュネーブ条約、海上国際法のパリ宣言にも参画した。日本は西洋文明の国際法を守ったが清はこれを無視した。中国の歴史は古来虐殺の事例に事欠かない。中国伝統の虐殺行為を近代に入って日本人がはじめてつぶさに知ったのはこの日清戦争であった。
清軍は日本軍の首を挙げた者に銀30両(米1石:1両、牝牛1頭20両)の懸賞までかけていた。「殺良昌功」山縣有朋は「捕虜になるな!」と布告するほど、支那人は惨忍だったのである。「敵の生捕りする所となるべからず。むしろ潔く死を遂げ以って男子の名誉を全うすべし」日清戦争でも交戦国以外の観戦武官が戦場をみていたのであって、歴史捏造は難しいのである。旅順口事件の内容は支那のプロパガンダによる誇大宣伝であり捏造した歴史である。支那の伝統的外交術の以夷制夷、遠交近攻、借刀殺人は民族の特性でもある。

朝鮮の話に戻そう。日清戦争中に日本は朝鮮の内政改革を提議したが、清に後押しされた朝鮮が強く反対、日本は閔氏政権を追い、大院君を迎えて親日政権を樹立、諸々の改革を「甲午改革」という。5ヶ月間だがこれこそ朝鮮での近代他改革の最初の試みであった。しかし大院君と日本側と衝突、大院君を政権から追放、新内閣を作るが、自派の権勢挽回を図る閔氏派が国王高宗を動かし勢力を延ばし内政改革は停滞する。
日清戦争に勝利した日本だが、日本が三国干渉でロシアに譲歩したことが朝延に侮日親露の傾向を生じ、開化党(日本に亡命していた朴泳孝は帰国第二次朝鮮改革を指揮する)と守旧両派の争いは激しくなり、親日・親露に分れて抗争する。ロシアは閔妃と結託して親日内閣を倒し親露派で朝鮮を支配しようと画策する。
1895年10月在韓の日本志士、反閔妃派朝鮮政客の声に親日派の李周会将軍他が日本人志士と接し、大院君を擁して王宮に突入し閔妃は殺害された。(乙未の変)日本政府はこの事件に日本人が関与したことを重く見て、三浦公使を含む40余人を召還して獄に下した。
王妃が殺害されることは異常な事件であるが、当時の朝鮮は異常な事件が相次いで起った。内政に収まることを得ず、常に大院君と閔氏一族と国王高宗そして王妃閔妃の権力争いに清、露そして日本や欧米侵略国が係って混乱する貧しい邦であり、自主の邦ではなかったのである。朝鮮に対するロシアの台頭は日露戦争への道でもあったのである。
閔妃殺害の背景に対する日韓の歴史認識は異なるが正視することに重要な意味がある。日露戦争とて朝鮮半島、清との係りのなかで必然的な戦であり日本側の勝利は諸民族に独立への勇気を与えたのである。蒋介石、毛沢東は若い時に当時の感想を記述している。支那ばかりでなくインド、フィリピン、ベトナム、ビルマ、インドネシアに於いても同様で、アジアのみならず、長年ロシアの暴圧に苦しんでいたフィンランド、ポーランド、スウェーデンなどの欧州の国々も日本の勝利に歓喜したのである。

1905年(明治38年)第2回日英同盟が結ばれ英国は日本の韓国保護化を承認した。米ルーズベルトは小村寿太郎に「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ。それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし」
英国のランズダウンは「英国は日本の対韓措置に異議なきのみならず、却って欣然その成就を希望する」とまで言い切った。
日韓保護条約交渉時高宗は、伊藤博文に対し国家としての形式と体面を残して欲しいとの希望を繰り返し哀願したと言われる。判服常なる韓国政府が極東不安定の一大要因であったこと。そしてそのために日清・日露戦争へ進んだことは、保護化から併合への道は歴史の「論理」必然であったと言う他ないと考える。

朝鮮社会の救い難い停滞は制度、文物のみならず思考そのものが停滞していた時代であり、国民にとって近代化は悪なのである。
この硬直した思考が近代化を妨げる結果になったかは計り知れない。日本はこれまでの朝鮮社会に「維新」の二文字を国是として、政治、司法、産業、教育、衛生などあらゆる面で韓国近代化への施策を強力に推進した。(日本の国家予算の多くを注ぎ込んで)急激な改革はある意味でこの国の人々に犠牲を強いたことも事実である。
1909年日本総監政治を称賛した元韓国外交顧問スティーヴンス(米国人)は反米韓国人に暗殺された。更に本来併合に慎重な姿勢で臨んだ伊藤博文も韓国人安重根のためにハルピン駅で暗殺される(10月26日)。日本に併合論は高まり、1910年(明治43年)8月韓国は遂に日本に併合され、李氏朝鮮は500有余年の歴史の幕を閉じたのである。

安重根は第二次内戦に参加した守旧反動派で逮捕後、日本との戦争だから捕虜扱いを要求するが旅順の日本法廷で合法的手続きで起訴、弁論、最終陳述を経て判決。死刑判決で1910.3.26処刑。日本側は自叙伝の執筆を許す。(東洋平和論:明治天皇を称賛)
執行が近づくとカソリック教徒として朝鮮大教区シューテル主教に告解を頼む。
主教は安重根を激しく非難「カソリック教徒として殺人を犯した安重根の行為は、いかなる理由をもっても許すことは出来ない。伊藤公は、これまで朝鮮のために多くの業績を残したにも拘らず朝鮮人は彼を恩人とは考えず、ただ単に侵略の元凶としか考えないという間違いを犯している。朝鮮人たちが伊藤公の死に歓呼するのはおぞましいことだ。」と告解を断る。
現代韓国は歴史捏造された反日教育で洗脳し安重根を英雄として、伊藤博文を侵略者と位置づけている。日本では逆の評価でなくてはならぬが、伊藤博文の評価は低く、ゆえに安重根を日本の仇だと考えないのが現代日本である。

朝鮮の産業は主に北部に中心をおき、まず水豊ダムを建設(当時世界一の規模を誇り満州、朝鮮南部へも送電)重工業を興す。(現在の価値に換算して北鮮地方だけでも8兆8000億円にもなる。)(戦後1970年代にかけ、北朝鮮に輸出したプラント・機械輸出額1000億円は未払いだという。)植林をし、農地の大改革も行う。
教育にも力を入れ、国に100ヵ所もなかった学校を4,000校まで増やした。等。
朝鮮近代化への改革案は次の内容を含め208項目にも達し、一瞥しただけでも当時の政治社会の停滞と前近代性が窺い知れよう。
・今後は清暦を廃し、開国紀元を用いる。(従来朝鮮が使ってきた支那の年号を廃して自国の年号を使うことである。開国元年とは李氏朝鮮の開始、即ち1392年を開国元年とする)
・貴賤門閥に拘らず人材を登用する。
・人身売買の禁止
・貴賤の別なく寡婦の再婚を許す。
・平民にも軍国機務処に意見を提出することを許し、卓見の持主は官史に登用する。
・官史の不正利得を罰する。
・司法権限によらぬ捕縛や刑罰の禁止。
・駅人・俳優・皮工など賤民身分の廃止。
・拷問の禁止。
・租税の金納化。
・優秀な少年の海外留学。
・外国人顧問の招聘。
・阿片使用の禁止。等。
日韓併合は両国にとって共通の国益だったのである。

韓国高麗大学韓昇助名誉教授の日韓併合肯定論は、国民から批判され、謝罪させられ名誉教授称をはく奪し、社会から抹殺した国でもある。
更に戦後初代大統領李承晩は国民に追放されるが、韓国民にとって最大の土産は「竹島」占領であった。(現在の日韓歴史問題は「竹島」の領土問題が最大の因である)(北海道日教組では「竹島」を韓国領と教えている。問題だ!)(領土問題でも密約があったのだ!)
李承晩の若き時代、安重根と同じ第二次内戦に参加した金九は日韓併合時代、日本の昭和天皇の摂政時代(皇太子時)に皇太子の暗殺を企んだテロリストであったとのこと。
1876年から1945年までの70年間を当時の情勢から物事を冷静克真摯に検証することを日韓両国民に願うしかない。何事も陽と陰の部分があり、片側から視てイデオロギー化する愚は賢人の為すことではない。

長々と記述しました。これは、長い歴史の一部である。日本の為政者はせめて、この位の事実は識っていて欲しい。その上で相手の立場にたって物言う愚だけは犯さないで欲しい。
大東亜戦争に敗けた!という事実で、歴史を自ら歪曲しないで欲しい。
日本人としての立場で歴史を視、その上で如何なる歴史外交を展開して行くのかが戦後の日本人に問われているのです。
過去を省みず先人の生きた時代を否定する者は、自らを又、国家の将来を否定するものなり。

参考 中村粲著 大東亜戦争への道 展転社版。渡部昇一氏の各種論文から